日興門流の教えと信仰
日蓮大聖人の教えを
真摯に求める
日蓮大聖人の教えを
真摯に求める
日蓮大聖人の教えはその門弟僧俗によって現代に伝承されています。日蓮大聖人は入滅にあたって六人の高弟(六老僧)を選び付弟としました。現在、日蓮門下には宗派・門流・会派と呼ぶことのできる教団が多数存在しますが、その源流は日蓮大聖人が選定された六老僧に遡ることができます。宗祖入滅後、各門弟は宗祖の教えを真摯に求めながら、一切衆生救済の南無妙法蓮華経のお題目を弘通してきました。
天台法華教学を基盤として教相を重んじられた日蓮大聖人は、法華経の会座である霊鷲山において教主釈尊から承けた上行菩薩の付属に基づいて弘教にはげまれ、法華経を身読実践されました。その実践をとおして日蓮大聖人は、末法の衆生は法華本門の教えによって救済されることを明らかにされたのです。
日蓮大聖人の教えは遺された御書(御遺文)によって学ぶことができます。とはいえ、門下上代の時代では御書を一同に拝読することはできませんでしたし、文献(御書)の渉猟や考証などにつき困難な環境の中での探求であったといえます。しかし、末法の衆生救済を真剣に求める日蓮の門弟は、古来その遺された御書を教えの基本として研鑽し、信行の功徳を積んで即身の成仏と霊山往詣を願ってきたのです。
末法の法華経の行者である日蓮大聖人は釈尊の教えを大乗仏教の精華である法華経に見出され、端的には「末法の荒凡夫は煩悩を断尽し覚りを得て成仏する機根ではなく、自らの愚かさを認め久遠の妙法である南無妙法蓮華経を深く受持して成道を得る」ことを教えられました。現代に生きる門下僧俗はその教えのままに不動の信をめざして仏道精進しています。
日蓮大聖人は専ら「南無妙法蓮華経を受持の一行」による成仏を説かれましたが、その教えにはまことに広範深遠な教義がこめられています。晩年の著述になる報恩抄には「問うて云く、天台伝教の弘通し給はざる正法ありや。答ふ、有り。求めて云く、何物ぞや。答へて云く、三つあり、末法のために仏留め置き給ふ。迦葉・阿難等、馬鳴・竜樹等、天台・伝教等の弘通せさせ給はざる正法なり。求めて云く、其の形貌 如何。答へて云く、一つには日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂 宝塔の内の釈迦・多宝・外の諸仏並びに上行等の四菩薩脇士となるべし。二つには本門の戒壇。三つには日本乃至漢土月氏一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱ふべし。
此の事いまだひろまらず。一閻浮提の内に仏滅後二千二百二十五年が間一人も唱えず。日蓮一人南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経等と声もをしまず唱ふるなり。例せば風に随ひて波の大小あり、薪によて火の高下あり、池に随ひて蓮の大小あり、雨の大小は竜による、根ふかければ枝しげし、源遠ければ流れながしというこれなり。周の代の七百年は文王の礼孝による。秦の世ほどもなし、始皇の左道なり。日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり。無間地獄の道をふさぎぬ。此の功徳は伝教・天台にも超え、竜樹・迦葉にもすぐれたり。極楽百年の修行は穢土一日の功に及ばず。正像二千年の弘通は末法の一時に劣るか。是れはひとへに日蓮が智のかしこきにはあらず、時のしからしむるのみ。春は花さき秋は菓なる、夏はあたたかに冬はつめたし。時のしからしむるに有らずや。」と説かれています。
すなわち、法華経の本門において説かれる南無妙法蓮華経こそ、あらゆる存在を支え育み輝かせる久遠の妙法であると覚知された日蓮大聖人は、仏道を成ずる戒定慧の三学にならい、一切衆生の成仏を顕す法華本門の妙法曼荼羅を本尊(定)とし、仏法のすべてがそなわるこの曼荼羅本尊に帰依し(戒)、法華本門のお題目を身・口・意の三業にわたって唱える(慧)ことこそ、末法の成仏道であると教えられたのです。この法華本門の本尊、法華本門の戒壇、法華本門の題目が日蓮大聖人ご教示の三箇の大事、三大秘法であります。
日蓮大聖人は天台大師・妙楽大師の教相判釈の上に、自らの五綱教判をもってこの宗旨の三箇を明らかにされました。この三大秘法は法華本門の教えの根幹であり、末法愚迷の荒凡夫はこの三大秘法を受持する一行で成仏できることを教えられたのです。
久遠の仏とその教えを受持して菩薩道を実践することを勧める法華経。日蓮大聖人はその法華経によって一切衆生に仏性(仏となる性分)が存在することを認められ、誰もが等しく真実の安らぎを得られるよう、南無妙法蓮華経の題目受持を強くうったえられました。
法華経常不軽菩薩品第二十に説かれる不軽菩薩は『われは深く汝等を敬う。敢えて軽慢せず。所以はいかん。汝等は皆、菩薩の道を行じて、まさに作仏することを得べし』とのべて専ら但行礼拝につとめました。
不軽菩薩は一切衆生の仏性を深く信じ、どのような人であっても軽んじることなく、敬うべきであることを身をもって示されました。この不軽菩薩の礼拝行にふれて、悪口罵詈し迫害を加えた人々は、その悪しき業を逆縁として仏縁を結ぶことになります。この不軽菩薩は過去世の釈尊の菩薩行の姿であり、ここに法華経が順逆二縁を救う教えであることと忍難弘通の貴さが示されています。
日蓮大聖人は聖人知三世事に「日蓮は是れ法華経の行者なり 不軽の跡を紹継するの故に」と述べられ、顕仏未来記には「彼の二十四字と此の五字と、其の語殊なりと雖も其の意是れ同じ。彼の像法の末と是の末法の初めと全く同じ。彼の不軽菩薩は初随喜の人、日蓮は名字の凡夫なり」と述べられています。
不軽菩薩は位の低い菩薩であり、位の高い菩薩のように、広範かつ精緻な難しい修行をおさめることはしません。但行礼拝の一行を専らにするだけです。日蓮大聖人は自身をその姿と同時、同位、同行であると述べているのです。すなおに仏縁を結ばれる順縁の衆生はもちろん、仏教やその行者に対して悪口・罵詈する衆生もその悪しき業を逆縁として救う不軽菩薩。その跡を承継する宗祖は位の低い末法の法華経の行者であり、修行は南無妙法蓮華経のお題目の一行です。不軽菩薩の真意を知る宗祖は門弟にもその跡に続いて、末法の凡夫らしい成仏への道を歩むよう望まれました。
報恩抄には「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり。無間地獄の道をふさぎぬ」とあります。
日蓮大聖人の説かれる南無妙法蓮華経は仏法の根本であり、一切衆生を救済する慈悲の発露です。また、人々の迷いや悩み、苦しみや悲しみを解放する妙法なのです。宗祖は人生のさまざまな課題に向き合ったとき、南無妙法蓮華経の唱題行の実践によって、たしかな超克がはかれることを教えられました。
日蓮門下では日蓮大聖人の教えは立正安国論に始まり立正安国論におさまるといわれています。一般的にも宗祖の著述として紹介されるのは立正安国論が最も多いようですから、立正安国の思想と主張は宗祖の教えの特徴といっても過言ではありません。
歴史的に釈尊によって創始された仏教は、人生の苦悩からの解脱を目的とし、真理の獲得をめざして覚者となることを求める極めて個人的な宗教といえます。しかし、出家至上主義、才能や環境に恵まれた一部の人々が救済されることが釈尊の本意なのかとの疑問。また、人間は社会的な存在であることが再認識され、原始初期仏教から大乗仏教へと大きな展開をみることになり、仏教の基本思想をふまえながら大乗菩薩道の実践こそ仏教本来のすがたであるという大乗仏教思想が華開きます。その大乗仏教の中心的経典が法華経といえるでしょう。
日蓮大聖人の仏法は久遠の存在を説く法華経が依経ですから、生命の永遠性を思慮しつつ、一人ひとりの現在の人生を輝きのあるものにする教えです。宗祖は久遠の本法であり諸法の実相である南無妙法蓮華経のお題目を身・口・意の三業に唱えながら、成仏という最上の功徳を積む仏道を歩むことを教えられました。この道こそ大乗菩薩道なのです。菩薩道ですから自分だけの覚りや幸福を求めるものではありません。一切衆生の幸せ、国家の安寧も願う仏道なのです。
我が国の仏教の受容は当初から鎮護国家という概念がありましたが、その後も氏族や一家・一門の繁栄を祈願する仏教が主流というものでした。日蓮大聖人の立正安国の思想はそのような一部の選ばれた人々の安泰を願うというものではなく、正法である法華経の教えを立てて国を安んじ、その結果、すべての人々の救済を願うというものです。そこには、戦乱や暴力、天変や地夭、飢餓や疫病など、日々の生活に不安を覚える庶民に寄り添う、末法の法華経の行者としての姿があります。
山林などに隠棲して社会と離縁し、庶民の苦悩や悲哀とは無縁の存在として、ひたすら真理を探究する仏道もありますが、法華経の行者として大乗菩薩道をあゆむ日蓮大聖人には、深遠な仏教とは縁の結びようもない庶民の苦悩と悲嘆が自身の苦悩であったのです。その姿勢は、人々の現実の苦しみや悩みと向き合うこともなく、神秘主義や耽美な精神世界に遊び、来世思想や祈祷儀礼をもてあそぶ高僧などとは懸隔したものでした。
立正安国論は「旅客来たりて歎きて曰く、近年より近日に至るまで、天変・地夭・飢饉・疫癘、遍く天下に満ち、広く地上に迸る。牛馬巷に斃れ、骸骨路に充てり。死を招くの輩既に大半に超え、之れを悲しまざるの族敢へて一人も無し。・・・」との御文から始まります。宗祖の現実直視の姿勢、庶民への思いが率直に述べられた書き出しといえましょう。
安国論では国を統治する為政者に対して問答体をもって仏教の道理が諄々と説かれます。文中『汝須く一身の安堵を思はば先づ四表の静謐を祈るべきものか』と指摘されていますが、庶民の安心と国の安寧は切り離すことができません。宗祖が安国論を時の為政者に奏進したゆえんです。
立正とは人々が人生のよりどころとして真の大乗仏教である法華経を受持することであり、人々が揺るぎのない安心を得ることです。また、仏法の思想が広く社会に活かされて行くことです。国が安んじられる安国とは、国という統治機構や社会機構だけにとどまらず、自然環境としての国土そのものも対象となるのです。
末法の法華経の行者である日蓮大聖人は立正安国を願われ、大乗菩薩道をあゆむことを教えられました。
日蓮大聖人は入滅にあたって六人の高弟(六老僧)を選定されました。この六老僧(弁阿闍梨日昭、大国阿闍梨日朗、白蓮阿闍梨日興、佐渡公日向、伊予公日頂、蓮華阿闍梨日持)を中心に日蓮門下の展開がはかられ現代に至っています。日蓮の門下は遡ればこの六老僧に至ることになりますが、私たち日興門流の僧俗は宗祖と同様に法華本門の教えを主張され、言行一致の振る舞いであった日興上人こそ日蓮大聖人の教えを正しく受け継がれた僧宝と尊崇しています。
日興上人は天台法華宗と日蓮法華宗の相違を明らかにされ、宗祖の教えが法華経の本門の教えによっていることを厳しく教示されました。また、末法の法華経の行者である宗祖こそ末法の法主であり、その法主が顕された妙法曼荼羅こそ衆生救済の本尊であることを主張されました。末法思想と法華本門の思想を中心とする日蓮大聖人の教えは、日興上人によってたしかに護持継承されたのです。日興門流はその地縁から古来富士門流とも称されてきました。
甲斐・駿河一円に教線をはられた日興上人は、宗祖入滅後身延に常住されましたが、地頭の波木井実長と佐渡公日向の謗法により、正応元年(1288)宗祖第七回忌奉修後に宗祖御影像等を奉持して門下諸弟を伴い身延を離山。正応2年(1289)春には駿州河合を経由して富士郡上野の南条時光の領地に赴き後の大石寺を開かれました。
日興上人は身延山を離れるにあたって、俗弟子の原殿に一通の書状を送られました。そこには「身延沢を罷り出で候事の面目なさ、本意なさは申し尽くし難く候へども、打ち還して案じ候へば、いづくにても聖人の御義を相継ぎ進らせて、世に立て候はん事こそ詮にて候へ。さりともと思い奉るに、御弟子は悉く師敵対せられ候ぬ。日興一人、本師の正義を存じて本懐を遂げ奉り候べき仁に相当たりて覚え候へば、本意は忘るることなく候」とあり、日興上人のご真意が率直に述べられています。
法華経では肉身の舎利よりも法身の舎利を貴びますが、日興上人は宗祖の遺跡よりも宗祖の御心を貴ばれました。文中、宗祖の御遺跡に思いが残る心情を述べながらも、宗祖の教えを最優先されたことが良くわかります。そのすばらしいご精神を私たち門弟はしっかりと伝承してまいります。
大石寺を開いて宗祖の教えを護持弘通する体制をしかれた日興上人は、数年後、大石寺を日目上人にゆずられ、重須の地頭石河能忠妙源の懇望により同地に移られました。上人は令法久住を願われて重須に談所を開き弟子の養育に努められたのです。永仁6年(1298)2月15日には御影堂・垂迹堂を建立し、その後36年間この地を動かず、法華本門の教えを厳格に護り伝えられました。
日蓮大聖人と日興上人の教えと信仰を護持されたのが第三祖日目上人。文応元年(1260)に伊豆国仁田郡畠郷に誕生された上人は、文永9年(1272)に13才にして伊豆走湯山円蔵坊に登り、同11年に同所にて日興上人に出会って師弟の契約を結び、建治2年(1276)11月には身延山に登って宗祖にお会いして卿公の名を頂きました。身延の地では宗祖に常随給仕のまことをつくされました。
正応元年(1288)から2年にかけて日興上人が身延を離山し、大石が原に居を移して大石寺の基礎を築かれるや、同行して大石寺塔中に蓮蔵坊を創し、さらに日興上人が永仁6年(1298)に重須の地に御影堂を建立して移られた後は、蓮蔵坊に在って大石寺を管領しました。
日興上人は日蓮大聖人にならって六人の付弟を定められました。その六人とは日目・日華・日秀・日禅・日仙・日乗の六人です。永仁6年(1298)の「弟子分本尊目録」には「此の六人は日興第一の弟子なり」と記されています。
問答にすぐれていたといわれる日目上人は奥州など各地に法華堂を建立、日道、日郷、日尊などの弟子を訓育され、数度におよぶ国家諫行を実践されました。令法久住と妙法流布に生涯をささげられた日目上人は日興門流に大きな足跡を遺されています。日興門流には八箇本山と呼ばれる寺院がありますが、その多くの寺院では日目上人が第三祖となっており、日興門流における日目上人の重みがよくわかります。